「空」とは何か?いかにして「空」を理解すべきか?

原文

「空」(emptiness)はサンスクリット語でshunyataと言います。空はまた「無我」(selflessness)(アナートマン、アナター)とも呼ばれます。空と無我は、心のなかには自己といえるようなものが実際にはないという、心の空性のことを指す言葉です。空と無我という考えこそ、仏教の思想と実践の基礎を成すものです。心には自己がないということを完全に理解した者は、空の教えをマスターした者であり、完全に覚醒した生き仏となります。

何故私たちは苦しむのか?その主な理由は、私たちの中に「わたしがいる」(サンスクリット語:atman)という感覚(sense of self)があるからです。私たちの心の中には、思い、感情、心理的な反応などがありますが、その中でもとりわけ、「わたし」(「ぼく」、「おれ」)という思考が積み重なっています。これにより、心の諸々の要素が「わたし」という概念と絡み合い、あたかも私たちが個体として別々に存在しているかのように思わせるのです。これが、私たちの葛藤と苦しみ(パーリ語:dukkha)の元となっているのです。

仏道とは、ヨガを正しく実践することで、苦しみの本質を正しく理解し、輪廻(samsara)に終わりを告げるための道です。特に、lhaktonまたはprajna等様々な名で呼ばれている、洞察の瞑想(ヴィパッサナ瞑想)は、仏教のみに存在する瞑想法です。仏教の様々な導師たちの教えによれば、ヴィパッサナ、すなわち、正しく見ることにこそ実存的な葛藤を終わらせるための鍵となるものであるとされています。

般若心経には、有名な「色即是空、空即是色」というくだりがあります。この文の意味について考えてみましょう。「色」(form)とは、それが物理的なものであれ精神的なものであれ、あらゆる相対的な現象を指す言葉です。相対的な現象は、2つのいずれかの在り方をしています。一つは、心に映る外的現象であり、二つは、心の中の現象です。全ての現象が「空」として経験されたならば葛藤が生じる理由はありません。心に現れた現象を「空」として経験せず、それを「わたし」にまつわるものであると経験することで、「わたし」がいるという前提に基づく心的反応(selfing)が起こります。もっとも、この心的反応はヴィパッサナ瞑想の対象、すなわち、瞑想を火に例えるならばその燃料としても使うこともできます。

要点

例えば椅子やテーブル等、自分の外にあるものを考えることでは、空の適切な理解に至ることはできません。空に関する洞察を得るための唯一の方法として、まずは、自己というものが、心の外にあるのではなく心の中で生じている現象であることを見る必要があります。

空は、空を通して理解しなくてはならないのです。空と、無常(パーリ語:anicca、英語:impermanence)と、苦(パーリ語:dukkha、英語:suffering)は、三相と呼ばれ、仏道の三つの柱とも言える概念ですが、心の空性を洞察することによって心の解放が起こるのであり、他の2つの相のみを洞察しても心は自由になりません。

したがって、空を洞察することは、どんな仏教の瞑想実践者にとっても、いや、実存的な葛藤により苦しむすべての人にとって重要な課題なのです。

空の瞑想(emptiness meditation)は、何も難しいものではなく、正しい教えを受けて実践すれば、実は常識的かつ容易にその原理をつかむことができるものです。教えが不明瞭であったりすると、成果が得られないか、あるいは成果が得られても非常に長い時間がかかってしまいます。しかし、空に関する洞察がなければ仏教の教えを理解することは到底できません。これは、すべての仏道が空を悟る(洞察、覚醒、見性、チベット語:semngo tropa、英語:insight)ことに基づいているからです。空に関する洞察が土台としてしっかりしていないと、その上に仏道という堅固な家を建てることはできません。

正しい洞察を得ることができない教えは、長い目でみると有害かつ誤解を招く恐れのあるものになってしまいます。直接的な洞察を得ることは、仏教が存在してきた全歴史を通して数々の導師が強調してきたことです。洞察無しには禅、ゾクチェン、マハムドラー等の非因果的な道を理解することはできません。

また、社会的または文化的なレベルで考えると、空を経験的に理解するための教えがない社会では、仏道に本当の信を寄せることができない修行者が沢山生じることになります。このため、生きとし生けるものがお互いとのつながりを通して真の利益を得ることができなくなります。したがって、全ての修行者は、直接的に空を体験することを第一の目的とする必要があります。

自分の空に関する理解の正しさをいかに判断するのか?

洞察、覚醒、または見性とは、心の中の、自己が本当に存在しているという誤った考えに基づく混乱にまみれた部分から「わたし」という感覚が恒久的に消滅することを意味します。比喩を使うならば、洞察とは、無知の壁に穴が開くことで壁の向こう側を見ることができるようになることに例えられます。穴が開いていない状態は、我という誤った考えに基づく無知の壁により視界を遮られていることを意味します。洞察は、そのような無知の状態からの解放を促すものです。無知の壁に少しでも穴が開けば穴が全く開いていない状態とは明らかな違いが生じます。なぜならば、ただ無知の壁を見つめていることと、穴を通して壁の反対側のほんとうの世界のありようを見ることとは全く異なる体験だからです。

最初の洞察の後にはより高い洞察(ブミの開通)が段階的に生じます。このプロセスは、無知の壁に最初にできた穴をより大きくして、壁の向こう側をより見やすくしていくことに例えられます。洞察を日常の瞑想実践と組み合わせていくことで無知の壁を完全に破壊することができます。

また、心の空性を「一見する」必要もあります。一見することと洞察を得ることとの違いは、洞察が恒久的なものである一方、一見することが一時的な理解にとどまるということです。

無知の壁に穴が開くと日常生活に変革が起きます。狭い視野しか持たない固定的な自己というありかたの一部が永遠に除かれることが私たちの人生に影響を与えない訳がありません。人間関係、仕事、創造的行為等の営みはよりオープンな心で迎えられ自己中心的な意見に左右されにくくなります。以前のように、自分の癖に基づいて考え、感じ、反応していた心が変わることで自分というもののありようが変わり、人生はより直接的で新鮮で親密なものとなります。これこそが私たちにとって最も深淵な意味を持つ変化となります。

無我の洞察以外では「わたし」という感覚を解体できないため、無我の洞察に代わるものはありません。

実践のアドバイス

オープンハートではヴィパッサナ瞑想を顕教的にも密教的にも実践します。顕教的ヴィパッサナ瞑想とは、最初の覚醒を促すための2部からなる目覚めの方程式(2-Part Formula)と、その後の対象ヴィパッサナ瞑想のことを指します。密教的ヴィパッサナ瞑想とはオープンハート・ヨガ(Open Heart Yoga)のことであり、そのユニークな実践法により、短期間でいくつもの段階の悟り、またはブミの開通(bhumi opening)を促す力があります。これらの悟り(ブミの開通)は、より長い期間にわたって成熟(ブミの完成)(bhumi perfection)されます。

実践のヒント:自己中心的な衝動が起きるとき、頭の空間の中で起こる緊張感に注意を向けてください。覚醒の前か後に関わらず、自分の衝動というものは頭の空間の領域において効率的に洞察することができるからです。

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