新鮮な仏教の風

原文

仏教は、宗教として、また哲学として、釈迦牟尼仏の時代である2500年前から続いています。お釈迦さまの前にもそして後にも、人の形をしてこの世で活躍した多くの仏陀がいました。仏は一人だけではなく、沢山いたのです。多くの仏がいるということは、それだけ豊かな数の仏道があり、それぞれが独自の視点で仏教の中心原則を教えてきたことを意味します。また、仏教は、物理的な形を取らずにこの世に影響を持つ仏や菩薩も崇めています。

仏教の歴史の中では、新しい地域や土地への拡大、新しい文化への統合、また、その教えの盛行から避けられない衰退、そしてまた新しい地域への広がりといった具合に、多くの発展の段階がありました。仏教が栄えた多くの地域では、その外側の形式部分だけを残して、仏法の本当の意味が失われてきました。これは、インド、中国、チベット、日本などのアジア諸国で見られてきたことです。仏教はこれらの地域において活力を失っていったという側面があります。この世において永続するものは何もありませんが、古い形の仏教がその魅力を失いそして衰退していくなか、衆生が仏法の恩恵を受け続けるためには、その中核の教えは再生し続け活性化され続ける必要があります。

仏教は常に有機的な広がりを見せてきました。それは、自然な拡大とともに、すでに成長した木の脇に新しい苗が次々と成長してゆく森のようなものでした。仏教自体はその兄弟姉妹であるヒンズー教とともに成長しました、そして両方ともお互いから影響を受けました。仏教はその歴史を通して生まれ変わり続け、自身を改造してきました。これが、仏教が2000年以上生き残ることができた理由の一つであると思います。仏教が新しい地域に広がったときにその教えが何世紀にもわたって更新されることがなかったならば、それは栄えることはなかっただろうと思います。

私にとっては、仏教は宗教的な行いではありませんでした。仏教は信念に基づいた信仰ではなく、むしろ真言や祈りを唱えたり座禅をしたりすることなどの様々なヨガの実践によって支えられる、または支えられるべき合理的な哲学的仮説と言えるようなものでした。私は世界で最も世俗的な文化の一つであるフィンランドで育ち、東方正教会で洗礼を受けました。私にとって、信念に基づく宗教から得られるものは少なく、それは人々の間における誠実な対話や調和を促すものではなく、逆に人々の葛藤や不平等、不寛容なありかたを冗長させるものだと思っていたので、正直に言って、人々が信仰に基づく宗教を選ぶことを理解するのには苦労しました。

2004年から2005年にかけて日本の寺院に住みましたが、私が驚いたことは、クリスチャンが私の母国で行っているのと同じように、宗教的な形で仏教を実践している日本人がいることでした。そのような人々に会う前には、仏教にもそのような宗教的な側面があることに思い至りませんでした。後になって、これが実際にはアジア各地で非常に一般的であることがわかりました。宗教的な仏教徒は、意識的にも無意識的にも、仏教を一連の信条と儀式からなるものとして見ており、それが自分の心を照らすために用いる方法であるとは見ていません。アジアの仏教の多くは、古びて萎縮した形で西洋世界に広がっているものも多く、そういった仏教は知恵を生む力を既に失っており、または最小限のレベルでしか知恵につながらないことに気づかない西洋人を見ることは珍しくありません。

なぜ仏教文化が最終的には衰退する運命にあるのかという問題は、教義がそのやり方や形式により固定され過ぎてくると、信者と教えとの間に乖離が生じてしまうことにあると思います。時間が経過するとともに根本経典や古典と見なされるようになったテキストでさえ、不要な荷物を負っていくことになります(Ken McLeodの記事を参照してください)。それが起こるとき、人々は教えを正確に理解することができず、仏法を理解して自身の血となり肉とすることができません。言い換えれば、仏法の本当の意味が失われてしまいます。

私達が仏教の巨匠達の伝記を読むと分かるのは、彼らが仏教の学習と実践をはじめたのは、彼らが実存的な葛藤を内面に抱えていたことに理由があったということです。彼らは自分たちの問題を解決するために仏教を教えに触れ、それを実際に彼らの内面における自己の葛藤を解決するために使いました。教えられた宗教的信条に従って外的な形式を単になぞることでは、それを成し遂げることができたでしょうか?昔の達人が、仏教の教えを高く聖なるものとして、自分からは遠く離れたものとして見ていたならば、仏教が、知恵と慈悲を具体化して衆生の救済のための乗り物となることはできなかったでしょう。

広大な空があるのみであって、聖なるものは何もない

(廓然無聖, Kakunen musho, 菩提達磨の言葉)

仏教は万人のためのものです。何故そう言えるのか?それは、すべての人にとっての苦(サンスクリット語:dukkha)の主な原因が、「自己」に根差す葛藤にあるからです。自分の存在についての葛藤は、「私」に対する誤った感覚や存在感(サンスクリット語:atman)を見切ることによってのみ解決することができます。これを行うのが、仏教の瞑想またはヴィパッサナの主な原理であり、それは三つの主な方法、即ち、顕教、密教、ゾクチェンによって行うことができます。このなかのどの道をたどっても、すべての思考やその他の諸々の心の現象は空(サンスクリット語:sunyata)であり、恒久的な自己を生み出すものではないという悟りを得ることで私たちの葛藤が徐々に収まっていきます。この認識は、それぞれの洞察(日本語:見性-kensho)を通して、インドの偉大なるヨギの菩提達磨が教えたのと同じ真実である、「広大な空があるのみであって、聖なるものはない」という事実を段階的に悟ることによって起こります。

菩提達磨は中国禅宗の開祖であると考えられていますが、自力に頼るにせよ、他力に頼るにせよ、仏教徒は空を悟ることによって解脱を得ることを目的とするため、菩提達磨が語った真実は、実際にはすべての仏教に普遍的なものです。自力他力ともに有効な手段であり、よりよい成果を得るためには、 密教で行われているように両方を同時に修めることもできるのです。

次回へ続きます。

ご精読いただき有難うございます。

Namo Guru Rinpoche

オープンハート創立者

キム カタミ

オープンハートサンガ:www.en.openheart.fi

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