覚醒の2部方程式についての考察

原文

覚醒(悟り)を確実に得るための修行法は今まで世界で知られてはいませんでした。沢山の師や宗教伝統が覚醒を目的とした幅広い実践方法を編み出してきましたが、現実的な時間と労力の範囲で実際に覚醒する人はほとんどいません。私は自分自身の経験と、多くの人の体験談から、覚醒を生み出すと言われている多くの修行方法では、ほんの一握りの人達しか覚醒しないことを知りました。

覚醒の2部方程式(Two-Part Formula)は、新しく発明されたものではありません。私の中に思いとして生じたものですが、私が発明したのではありません。それは私に前世の記憶として思い出されたものです。覚醒の2部方程式はチベットのゾクチェンのある宗派の中で、前行として教えられています。また、仏教瞑想や非二元論のいくつかの修行法はそれと多くの類似点がありますが、やはり異なるものです。伝統的には、ありのままの状態(チベット語:semnyid)を見る、或いはそれを保持することを意味するsemdzinと呼ばれている実践法にあたります。この実践法は実際には何百年もの間チベットの中で、そしてその前にはゾクチェンが教えられていた地域で実践されてきたものですが、秘密の誓いによって守られてきたため、宗派の中の一部の人間にのみしか教えられてきませんでした。私はこの教えを提供することによって人々の助けとなれることに幸せと謙虚な気持ちを感じずにはいられません。世界が本当にそれを必要としていることを私はよく知っています。覚醒につながると言われてきた様々な教えを何十年にもわたって実践してきたのにも拘わらず、それが到来することなく苦しんできた人々の話しを何度も聞いてきたからです。これはとても残念なことです。

覚醒の指導を受けたいという人々の要求を受け始めてから、統計を取ってきました。95人が指導を受け、そのうち93人が平均5日間で覚醒しました。これは、真摯に実践した人の98%が覚醒したことを意味します。これらの人々の年齢は20歳から75歳の間でした。このグループには、高学歴の学者や医師をはじめ、多くの国の一般労働者まで、また、男性と女性の両方が含まれています。このグループの人々の中には、これまで瞑想を実践したことのない人が沢山いました。その一方で、長年にわたる瞑想のトレーニングを受けてきた人も沢山いました。最短の指導期間は6時間、最長の指導期間は5週間でした。9人が指導を受ける前の準備段階で覚醒しました。2つのケースで望ましい結果が得られなかったのは、初期の段階では指導者の知識が十分でなかったためです。

この経験から、覚醒の2部方程式が、精神性な指向をもつ人、哲学的な人、または科学的な考えをする人にかかわらず、あらゆる種類の人々に適していると思うに至りました。覚醒の2部方程式はどの宗教にも属さず、覚醒は特定のグループの人々のみに起こるものではありません。それは実存的な葛藤に苦しむあらゆる人に適用可能なものです。覚醒の2部方程式は普遍性を持った方法なのです。

自己妄想

実践者の多くにとっては、洞察が起きて始めて覚醒の2部方程式の単純さと直接性が明らかになります。それより前には、覚醒の2部方程式の二つのモードを組み合わせることを思いつきもしなかったということをよく聞きます。何かを追い続けている状態にいる人々が2つのモードを組み合わせることに思い当たらないという現象は、実に興味深いことです。少し考えてみて下さい。覚醒の2部方程式では、(1)まず、(特に、自分の目の後に広がる)開かれた意識(open awareness)を認識し、次に(2)「わたし」(「おれ」、「僕」)という思いを心で念じることによって、「わたし」という思い(I-thought)と、開かれた意識(open awareness)とを比較します。自己妄想ということばが広く使われている通り、「わたし」という思いをあえて念じさせる実践法はまれです。「わたし」がいる、という感覚そのものを意味するセルフ(self)(小さな自己)とは、その大部分が「思い」として存在しているものです。心のなかに「思う」ことがないならば実存的な苦しみを受けることもないのです。ならば、自然な論理の流れとして、「わたし」という思いを繰り返し心に念じ、それが意味を失う、あるいはそれに秘められた強い感情が失われる瞬間まで、単にそれを意識している状態を保つ、という方法が思い起こされます。覚醒の2部方程式は、「わたし」が持続するメカニズムそのものに沿って発案された単純なテクニックなのです。

無我

覚醒が起こると、人々は突然に、より自由を感じ、より明晰になり、より平安になり、より創造的になり、よりリラックスして、より健康になり、ストレスが軽くなるなどの経験をします。人々は、覚醒によってあらゆる良いことがもたらされたと言います。「わたし」がいる、という感覚を作る原因となった数々の重責が、覚醒が生じることで崩壊します。覚醒とともに、気球のように膨らんだ「わたし」の中のよどんだ空気が開放されて空になります。

仏教では、これを心の空性に関する洞察(insight into emptiness)と呼んでいます。空性(英語:emptiness、サンスクリット語:sunyata)または無我(英語:selflessnessサンスクリット語:anatman、パーリ語:anatta)は、あらゆる心の現象に私というものが無いことを指します。それは、一旦目覚めたならば、「私たち」、「私」または「あなた」が実体として存在することがもはや信じられず、私たちの実体性、即ち、私たちが固定的に存在しているという思い込みがなくなることを意味します。このような洞察が得られる前は、「わたしが体の中に住む実体として確かに存在している」という思いが本当のこととして信じられていることは一般的なことです。「わたし」とはどこにあるのか?と問われたならば、私たちは通常指を自分の頭の方向に向けることになります。私たちは、知らず知らずのうちに、小さな「わたし」なるものが頭の中にいて、それが目を通して外を見、耳を通して音を聞き、脳を通して考え、そして体を通して生きているという思い込みを得るのです。しかし、この思い込みを吟味し始めるとそのばかばかしさが目に見えてくるのです。

釈迦はバヒヤ経で以下の通り言っています。

見られたものにおいては、見られたもののみが有り、

聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有り、

感じられたものにおいては、感じられたもののみが有り、

思われたものにおいては、思われたもののみが有る。

しかるに、そこには実体となるものはないことを知るべきである。

私たちが音を聞いていても、音を聞いている「わたし」なるものはなく、音を聞いているというそのことしかありません。私たちがものを見ていても、ものを見ている「わたし」なるものはなく、ものを見ているというそのことしかありません。私たちが実体を通して見ている、聞いている、考えている、そして生きていると思い込むとき、私たちは必然的に惑わされ、物事をありのままに経験することはできません。ある経験に対して「ほしい」と思ってそれを引き付けたり、「いやだ」と思って押しのけたりする原因はこの「わたし」に関する思い込みにあります。「わたし」の実体性が解体されることで、出会う物事すべてについて「わたし」が付随して誤った解釈が生じる状態が止まり、直性的に見、聞き、考え、そして生きることができるようになります。

これらの対話で証言されているように、人々の人生は覚醒とともにより自由に、より健康にそしてより幅広くなります。仏教用語である「空性」は誤解を招くことがありますが、空性が意味するのは、それがどんな形で現れようとも、現象において不変な自己は無いということです。そして、ひとたび空性の恩恵を受けて、ありのままの状態(チベット語:rigpa)を一時的にでも経験して意識の変革が始まると、自分の望んでいたものである、自由と自分のありのままの姿を自然と感じるようになります。

覚醒のための理想的な条件

誰もが覚醒することができるための理想的な条件を生み出すための5つの重要な要因について考察します。

  • 指導者が覚醒していて、覚醒とは何なのか、そして覚醒がどのように起こるかを正確に知っていること。
  • 指導者が、正確な指示により口頭でそれを伝えるための明晰さと能力を持っていること。
  • 指導者が、覚醒を生み出すことを特に意図している、簡潔な実践法を持っていること。
  • 覚醒のプロセスを迅速に完了させることができるように、指導者と生徒との間で十分な一対一の対話があること。
  • 生徒は彼の問題の本質的な原因が自己妄想にあることを認識していること。
  • 以上の理由から、生徒が覚醒のプロセスを経ることに意欲を感じていること。

これら5つの重要な要因の反対となる条件は、次のとおりです。

  • たとえ指導者自身が覚醒していたとしても、彼は覚醒とは何であるか、あるいはそれがどのように起こるのかを正確には理解していないこと。
  • 指導者は正確な指示により口頭でそれを伝えるための明晰さと能力を持っていないこと。
  • 指導者は覚醒を生み出すための特定の実践法を知らないこと。実際、彼が使っている実践法は全く覚醒と関連性がないか間接的にのみ関連している可能性があること。
  • 指導者と生徒との間で一対一の対話が十分に行われていないため、結果に達するのが不必要に遅れてしまうこと。
  • 生徒が正しい動機を持っておらず、実際には覚醒を必要としていないこと。

私は多くの宗派の指導者や修行者と対話してきました。指導者や生徒の理解を妨げる問題について話を聞くとき、世俗的な教育がどのように生徒にされているかを思い出します。例えば、学校で数学を学ぶ場合に上の5つの点を考慮すると、教育システムはこれらの重要な点を保証していると確信できます。しかし、精神教育(サンスクリット語:dharma)では、このようなことはめったにありません。考えてみると、法が教えられている現場で10年以上過ごしたことのある人にとって、これは驚くことではありません。古い伝統には古い方法を改善すべく点がたくさんあることは絶対に確実なことなのです。

覚醒した人々の体験談

これは、覚醒の2部方程式で覚醒した人々の体験談です。これらの体験談は、彼らが覚醒したときから1年以上後に記されたものです。

質問: あなたにとって覚醒とはどのような意味がありますか?それはあなたの人生にどんな変化をもたらしましたか?

回答: 覚醒は私の人生で最も印象的で重大な出来事でした。私とは何者なのか等と想像する必要はもうありません。ものごとのありようについての説明を求めたり、本から救済を求めたり、治療を受ける必要はもうありません。考え方を強制的に変更する必要も全くありません。自己の重要性にしがみついたり、自分のこと、好きなこと、嫌いなことを何らかの形で定義したりする必要はありません。ありのままでいること。それで十分です。何も探す必要はありません。これまで私の心に混乱を引き起こしていた感情、思考、そして出来事に対して自然な距離があります。平穏であることが私の生活の中で増加し、至福の極みから暗闇や鬱のどん底に落ちるといった極端な経験がなくなりました。

回答: 覚醒は私の人生に明快さをもたらしました。また、瞑想が楽になりました。もっとリラックスした気分になることができるようになりました。内なる平和が増しました。私の周りで起こっている出来事がよりよく理解できるようになりました。ものごとに対する許容度が向上しました。ものごとに気付く(マインドフルでいること)に関する能力が増し、周りの出来事をもっと詳しく知ることができるようになりました。それはまるで常に瞑想状態にあるような感覚です。

回答: 覚醒は、真実を追い求め続ける行為を終わらせました。覚醒は、喜び、リラクゼーション、忍耐力、勇気、そして他者に対する責任感や思いやりをもたらしました。

回答: 私は不平を言うのをやめました。満足度が高まりました。生活の中で私が持っているもので十分です。何らかの心理的な抵抗、不快な感情、または怒りさえあっても、それを消してしまいたいとは思わなくなりました。その代わりに、これらの感情を冷静に観察し、それがどこでどのように発生しそしてどのように消滅するのかが見られるようになりました。以前のように直ぐに感情的になることもなくなりました、心理的な現象を単に目撃することができるようになりました。どんなことでも深刻になる必要はなく個人的な問題ではないと知ることは大きな安心をもたらします。30年間、有罪感と恥を感じて生きてきた人にとって、その重荷を下ろすことは非常に大きな安心をもたらします。覚醒は私の人生を直接的にし、自然にし、そしてさらに簡素化しました。内なる声によって自分や他の人を判断しなくなったため、人との関係が楽になりました。他人は他人で自分のスペースを持っていることが理解できるようになり、物事を制御する必要性が減少しました。

回答: 覚醒の後、私の日常生活における内なる平和と安定は明白のもとにあります。

回答: 覚醒により仏道の全体をより大きな文脈の中に位置づけることができるようになりました。覚醒は多くの点で私の存在に明るさと明快さをもたらしました。ものごとに対して個人的に執着しなくなるため、私の経験から生じるすべてのことを経験して受け入れるのが容易になります。個人的で嫌な感覚はまだ生じますが、それらはより容易に受け入れられるようになります。人生はそのようにあってそれ以上のものではないのだから。例えば、以前は恥ずかしいと感じるような状況でも、もはやそれほど強くは恥ずかしいとは感じられなくなりました。その代わりに、このような事情を見てただ笑うだけです。恐怖感やそれらに関連する思いは起こりますが、これらはまた心に自然と浮かんだ泡のようなものだと見なされ、絶望感を生むことはありません。外がから見ると、何か欠けているように思われるかもしれませんが、それは必ずしも正しくなく、ただ何かを求め続けているということがなくなったということです。全体として、自分の行動はより自由で創造的なものになったと思います。人と一緒にいるときももっと直接的なかかわりができるようになりました。

回答: 覚醒はひと時の出来事でしたが、特別なのはそれが仏道への入り口であったということです。それを通して、自分の人生をより誠実な状態で生きることができるようになりました。そこでは、条件付けられた思考が私の直接的な経験を色付けすることがありません。これこそすべてを意味します。

他のコメント

コメント: 覚醒の2部方程式の効果については、あまりにも虫の良い話しのように聞こえます。しかし、それは本当なのです。自己の主体的側面と客体的側面の違いはとても重要なことであり、この本に出会うまではこれを理解することができませんでした。この点は覚醒においては重要なものです。私は18年間、自己の客体的側面についてのヴィパッサナ瞑想を実践し、それは自己の主体的側面を弱める効果があったものの、それを完全に解体するまでには至りませんでした。一方、主体的側面を直視すること2週間、やっと覚醒に至りました。これについては感謝に堪えません。自己の主体的側面と客体的側面との区別を理解している指導者はとても少ないのではないでしょうか?仏教一般の現状を考えると、これはとても革新的なことです。2部からなる目覚めの方程式でこれだけ速く覚醒を生じさせることができるのは恩寵以外の何物でもありません。テーラーワーダ仏教であろうと、大乗仏教であろうと、伝統的な方法では覚醒に至るために何年の年月がかかります。覚醒をこれだけ速く生じさせることで、実践者が自己と向き合う際の困難とパラドックスを避けることができます。覚醒の2部方程式を熱心に勧めるのはこういう理由があります。覚醒は法の実践者にとって普遍的なゴールであるため、様々な宗派の仏教においてこの道具を用いることができます。

コメント:世界中で、そしてほとんどすべての仏教の伝統の中において、覚醒はいまだに非常にまれなものです。覚醒の2部方程式は文字通り覚醒の暗号を解読しました。これは私の知る限りでは今までに行われたことのないことです。

懐疑について

キム・カタミ、カール・エイクラム著

預流果、見性、悟りなどの異なることばで呼ばれる覚醒を対象とする様々な仏教宗派の中では、覚​​醒は比較的明確に定義されています。しかし、一旦仏教の外に出ると、覚醒ということばは、仏教の観点からすると全く無関係だといえるようなさまざまな意味を持ちえます。この本で用いる覚醒ということばの意味は、心の訓練に関する世界のあらゆる宗教と哲学の中でも明らかに最も信頼性が高く体系的な宗教である仏教から来ています。

覚醒の2部方程式を公表したときに著者が遭遇した問題の1つは、多くの人がそれに対して疑いと不信を抱いたということです。指導を受けた人でも初期の段階では疑いを抱いていたという人が多くいます。人々が最初にそのような反応を見せる主な理由は、歴史の中で覚醒を生み出す信頼性のある方法がなかったという現在の世界の精神文化にあります。この頑固に根付いた信念が、覚醒という言葉がもつ様々な解釈と組み合わされると、場合によっては人々に拒絶反応を起こさせることになります。この拒絶反応は正統派の宗教的信条にしばしば原因があります。このような人々の懐疑を理解するための試みとして、著者らは覚醒の指導を受けた何人かの人々と話をし、彼らの経験を話してもらいました。

覚醒とは本当にそれほど簡単なことなのでしょうか。

Karl: その方法に遭遇したとき、私はその方法の妥当性と、覚醒したと思われる人々の目の中にある種の信憑性とを即時に認識しました。それでも、それが本当にこんな簡単なものでよいのかという疑問は、指導を受けている間にも私にずっと付いてまわりました。私の友人MN(ケース10)は、覚醒がそれほど単純なことはとても信じられないと言っていました。彼女は、覚醒とは、計り知れない苦しみを受けた人に自然に起こるか、あるいは長期的な瞑想の実践を通して徐々に起こるのものだと教えられていました。

Nのコメント:私が以前に読んだり聞いたりしたことによれば、覚醒とは、何年もの激しいヨガ、クンダリーニの訓練、瞑想、呼吸の練習などが必要とされるということでした。そして、ある日、もしあなたがラッキーだったならば、ポンッというように覚醒が起こるかも知れないといった不確かなものだということです。自己について問答するといった簡単な方法はこういった私の認識に相反するように思われました。しかしこの私の混乱の理由は簡単に説明できます。修行をするということは、ある時点で「わたし」という感覚についての洞察が生じると信じている特定の実践方法を始めることを意味します。しかし、私たちが「何かを探究している」状態にいるとき、それは常に探求者、すなわち、探究しているわたしという主体を生み出します。覚醒の2部方程式は、探究者としての、すなわち、主体としての「わたし」という感覚のみをその直接の対象として切り出し、その主体の本当のありようを見極めることで、すなわち、「わたし」なるものが通常の私たちが思っているようなあり方をしていないことを理解して、いかなる探究も不毛であるという洞察に至ることを可能にします。私たちは、自分の実存的な問題が二元的な手段により解決できると思っていますが、そもそも探究者として実践する「わたし」という感覚は幻覚以上のものではない以上、それは不可能なことなのです。こういった理由から、「わたし」のありようについての洞察が得ることが最も直接的な方法なのです。

精神的な実践を長く行っている人達こそ、 覚醒の2部方程式について考察すらしないという意味で最も懐疑的であるようです。「迅速な覚醒など約束されない」という前提に絡められた瞑想の実践を何年も行ってきたTは、そういった長年の瞑想こそが彼の最初の疑いの原因であったといいます。覚醒の後でも、ここまで単純なものなのだろうか?という思いは彼の中に残ったといいます。懐疑のもう一つの形は、自分自身を疑うことです。自分のエゴが大きすぎるか弱すぎるため、あるいは自分が精神性に欠けるために覚醒のプロセスを経ることは不可能だと思う人々がいます。Pは、自分は精神的な問題を沢山抱えているため、目覚めの方程式は彼女には効果がないだろうと思ったと述べています。覚醒のプロセスを経た彼女は、それが別に複雑なものではないことを認めるようになりました。

提示した統計は、覚醒の2部方程式が効果的であることを科学的に示しながらも、それには副作用があるようです。いくつかのケースでは、それがより疑いを増すこととなり、統計そのものの信憑性に対する懐疑につながっていたようです。テクニックの基本的な論理構造を見抜くことができない人々にとって、高い成功率はあまりにも出来すぎた話に聞こえ、したがって真実ではないと思うようです。

瞑想のインストラクションでは次のようにお願いしています。あなたが覚醒とスピリチュアリティについて持っているすべての考えを一旦棚に上げてください。瞑想をしたことや、スピリチュアリティの本を読んだり、スピリチュアリティの教えを受けたりしたことを忘れてください。これらは必須の要件です。完全に心を開いてください。それができるならば、読み進めてください。

Hのコメント:

私が最初にカタミ氏に連絡したとき、自分がどういったものに関わっているのかまったく知りませんでした。私は瞑想や精神的な訓練の経験がなく、心の二元的な性質についても知りませんでした。私は主にそのプロセスと、これから起こることに興味があると感じただけです。自分がやろうとしていることについて何も知らなかったので、自分の能力を疑う機会もありませんでした。覚醒した後は、この貴重な教えに出会ったことが本当に嬉しかったです。

Nのコメント:

私の経験を振り返ってみると、私が期待していたことは間違っていたと言えるでしょう。 素晴らしい神秘的な経験はありませんでした。聖歌隊が奏でる音色も聞こえないし、天使たちの合唱もなく、天国への扉も開きませんでした。それはすべてごく普通のことだったのですが、深遠な意味を持っていました。それは意識の変化でした。覚醒の明快さへの第一歩でした。突然自分というものから解放されたという意味において重要な変化でした。あなたは、経験の直接的さと明瞭さを遮る、いつもの「わたし」を参照する必要がなく、深い気づきをもって生き生きと経験を迎える機会を得ます。その平凡さの中で、あなたは人生が本当にいかに素晴らしいものであるのかを、それが生きていて呼吸する貴重な機会であることを発見します。

Fのコメント:

後から見ると、覚醒についての偏見や考えは、未知のものへの恐れであったということがわかります。「覚醒」という言葉自体も私の心に偏見をもたらしました。私は覚醒というものが、非常に特別な、他者から秀でている精神的な指向を持つ人々だけに生じるものと思いこんでいました。この考えは修正されることになりました。覚醒した人々は寛容であり、彼らは自分自身を良く見せる必要がありません。私のような普通の人、通常の日課、家族、仕事を持ちつつ覚醒することができるというのはとても素晴らしいことです。そして毎日、覚醒がもたらした変化にとても満足しています。

これはキム・カタミによる出版予定の本、Awakeの抜粋です。

覚醒へのガイダンス

覚醒する方法

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