ぺマコ・メソッドの前行について

元の英文

前行について

この1年間、ぺマコ・メソッドの前行に取り組んできました。この言葉はチベット語のngondroまたはnundro から来ています。前行はだいたい三十ほどの修行法からなります。ここでは、そのうちの幾つかについて説明します。

ゾクチェンの前行: 自然を楽しむ

心の本当の姿は屋内でも屋外でも同じなので、基本的には何も環境を変える必要はありません。ただし、屋外では周囲の自然により心の本当の姿 が見えやすいですが、生き生きとした自然のない屋内では難しくなるという一面も確かにあります。このため、修行者は常に自然の中での修行を優先してきました。天候によっては外に座ることが難しい場合もあるでしょう。そんなときでも、壁の先にある自然を感じるようにしてください。また、窓を開いて自然の音を招き入れるようにすることもとても有益です。

外に座っているときは、他の人の近くには座らないでください。自分の安らぎの中に、周囲の自然だけとで座っているという感覚を持つべきです。また、木や茂みのある森に行くことが可能であれば、それは人工の庭よりもはるかに優れています。

丘、崖、川沿いまたは砂漠のような自然のある場所や森林に行ってください。快適で安全な場所を選びましょう。そして、座って下さい。ただし、瞑想はしないでください。周囲の自然、光景、音とのつながりを感じます。何もせずに周囲の自然と一緒にいるだけです。祈り、マントラ、その他の祈願行などを行っても良いのですが、特に必須ではありません。

自然はすでにあるがままの状態にあります。ハイキング、キャンプ、釣り、狩猟など、自然の中で過ごしたことのある人ならこのことを誰でも知っています。物理的な自然、その力は非常に説得力があり、最も頑固な自我でさえ自然の中では沈黙します。これを達成するためには何か特別なことが必要でしょうか?いえ、自然の中に行くというその行為以外は何も必要ありません。それだけです。どんな種類の努力もする必要はありません。考えや意図なしに、自然と時を共にしてください。木、茂み、動物、空、地面、風、光、それらがすべて生きています。ただそこに出て行けばあるがままの姿が現れるでしょう。なんらかの理由で​​落ち着きがどうしても得られないならば、Phetマントラを叫んでください。これが自然を楽しむという実践法です。特別なことではありません。

一般的な前行

法は幸せを得る手段ではない

法は幸福について語るものではありません。。。これを自分に何回も言い聞かせてください。あなたは人生をより幸福なものにするために、あるいは、それをより良いものにするために仏法を実践していますか?それも良いことですが、それは仏法の本当の目的ではありません。完全に自分の本性を理解し、悟りを開いた修行者たちは自分が幸せになるために修行をしたのではありませんでした。では、なぜ彼らは修行したのでしょう?彼らは自分たちの本性を知るために修行したのです。自分の本当の姿を目の当たりにすることが仏法の核心です。仏教には、私たちの本当の姿が、心の内容と肉体によって具現化される完全に目覚めた意識であることを認識するために広く実践されている多くの修行法があります。この最後の文を3回読んでください。

執着

私たちは人生に執着しています。西洋社会にはありふれた快適さにこだわっています。不快感を避けたいと思っています。そうではありませんか?それについてよく考えてください。自分に対して嘘をつかずに正直に考えてみてください。私たちは、おいしい食べ物、セックス、エクササイズ、飲み物、麻薬、高級マッサージ、新しい車、新しい家、新しいパートナー、新しいペットなど、刹那的な快感によって幸せになれると確信しているからこそ、不満の原因もたくさんあります。それはまた、ある種の朝食に執着しているといったような、より微妙な場合もあります。これらの例のどれも、執着がなければ、つまり自己、私というものが関与していなければ、苦しみの原因にはなりません。これらのことのどれもがあなたに永続的な幸福を与えられないことを見るなら、それらに頼ることはないでしょう。自分が仏であることを既に知っているならばそれらの問題は解決します。解決しようとせずに解決する。みんな、それを求めています。生きとし生けるもの、すなわちすべての輪廻転生する存在は仏性を持っています。そしてまさにこの事実こそが、私たちがつかの間の快楽から満足を得ることができない理由なのです。

これは誰もがすでに聞いた話だと思っているでしょう。「ええ、ええ、すでに聞いたことのある話ですよ」。知った気分を壊して申し訳ありませんが、心にわずかな影がなくなるまであなたは本当にそのことを知りません。人間であるということとそれによって快感に執着することで心は混乱状態にあることを認めましょう。この考えは自分の存在の隅々までに浸透する必要があります。そうでなければあなたは修行をしていません。あなたが飲み屋に行って、良い酒、脂ぎった食べ物、笑いを求め、そしてもしかしてだれかと寝てみたい、といった利己的な興奮が少しでも残っているならば、あなたには執着があります。それを認める準備ができていない、またはこれを認めようとしていない場合は、もちろんそれを強制するつもりはありません。ただし、世界がいずれはそれをあなたに認めさせるでしょう。

人生の移ろい

私たちは皆、人体、名前、そして人格を持つ人間であり、人間が普通にすることをしています。また、人間には仏性があり、そのため、輪廻から解放される可能性があります。仏性そのものが解脱の原因です。

次のことについて熟考してください:事故、病気または老年による死の必然性。死を免れた人のことを聞いたことがありますか?もちろんないですね。あなた、私と私たちの愛する人を含む他のすべての人が死にます。あからさまに言って申し訳ありませんが、それはあなた、私そして他の誰もが時間の流れを止めることができないという事実を表しています。私たちは自分自身を仏として知ることによってのみ時間の輪から飛び出すことができます。ですから、前行を仏法として実践するとき、私たちは座って、さまざまな種類の突然の事故で亡くなること、歩けずに動くことができなくなること、胃が消化できず食べられなくなること、自分自身を汚し、口は乾いて、目はぼやけて、耳はよく聞こえない状態になること等について熟考します。このようにして人生の移ろいについて熟考すると、執着心や利己心が変容し、より明快な気持ちになります。つまり、心が少し自由に近づくことになります。

死の瞬間がいつ来るかはわかりませんが、いつかは体が地に落ちて息が止まるのは確実です。数時間で人体からは熱が逃げ、腐敗し、そして死臭に満ちてきます。あなたは自分の目で死体を見たことがありますか?

統計的に、毎日151 000人が死亡しています。それは一週間で百万人以上になります。百万人の死体…若者、老人、子供、黒人、白人、アジア人、背の高い人、身近な人、頭の良い人、頭の悪い人、ハンサムな人、魅力的な人、魅力のない人、リーダー、フォロワー、博士、億万長者、貧しい人々、異性愛者、同性愛者、レズビアン、トランス、リベラル、保守派、活動家、過激派、テロリスト、そして少数の霊的実践者も…どれだけの人達が明確な心を持ちつつ平和に死ぬことができているでしょうか。死んだあとに、あなたが知ることすべてから離れて行かなければならないという考えに慣れていないならば、混乱と、恐れと、心配にまみれて死ぬことになります…そのような死にかたはあまり綺麗な光景ではありません。修行者は、心を開いて死を歓迎し、それが必然的な変化であり、その後も人生が続くことを知っているので、節度を保って死にます。あなたを少し揺さぶろうと思って、かなりグラフィックな説明をしました。死の瞑想は、私が10代の頃から25年以上にわたり主に実践してきたことでした。私は修行を完成してませんし、心は穢れたままなので、死ぬと体が乾いて黒くなるかもしれません(笑)。

人生は一過的であり、それもその美しさの一つです。すべてが動いています。人は成長して、信念体系を作り出し、あらゆる種類のものに関する固定観念を外部から吸収するものです。自己と愛着は私達が生まれたその日から存在するのです。本当に。

仏教の最も中心的な教えの中に、衆生は異なる領域間で生まれ変わるということがあります。今、私たちは人間です。私たちがどのような心を育むかによって、 100年後には、 犬、猫、豚、天使、神、悪魔などになるかもしれません。あるいは解脱するかもしれません!実際には数百年以上も早く。私たちが内なる仏を現実化できるかどうかは、心の準備や意欲(これらは利益から来ています)、教えや師との縁、そして実際の努力にかかっています。心の準備と縁は前世から来ていて、これは現世で実践することでさらに強化されます。実際の努力もまた前世から来ている部分があり、概念に拘泥せずに仏法を血肉として理解できるかどうかもそれにかかっている部分があります。

実践者の一部は、法や、仏や、空や、等についての話を聞いた瞬間、すでに仏法を歩み始めます。何かピンと来るのでしょう。これは、馬と鞭の例えで考えられます。ある見事な馬は鞭の影を見た瞬間もう走っています。反対に、ある馬は怠惰で、たとえ殴打されていなくても既に休憩しています。私は仏法について非常にカジュアルに振る舞う人々の中にでそのような悪い馬をたくさん見てきました。彼らは実践していないので単なる信者であり、仏の教えが何であるかを知っていると思い込んでいるに過ぎません。そのような人々が息を引き取るとき、それは怖いジェットコースターになるでしょう。多分彼らは来世で仏法をなおざりにしないでしょう。そのような人は、師に耳を傾け、前行をまじめにすることをしませんでした。それからこれら二つ馬の中間の馬がいます。あなたはどんな馬ですか?あなたの道を単純で真直ぐなものにするためには動機を明確にすることが大切です。あなたが刹那の幸せを軽くかじるだけの人生を望むのならば、前には長くて曲がりくねった道が待っています。それは私にとっての問題ではないし、私はあなたに強制するものでもありません。死と人生の一過性は重要な前行なのです。

誠実さ

誠実であることはもう一つの前行です。私たちは自分の至らない部分を正直に見据える必要があります。私たちは自分のために、自分が幸せになるために物事を変えようとするため誠実さをうまく実行することができません。今ここで誠実であるべきことを思い出しそして誠実さを養うことで、すでに仏としての風格が明らかになります。誠実さと正直であることは、純粋で平和的で地に足がついたエネルギーの洪水をもたらします。私たちが自分の考え、言葉、行動について正直なままでいるなら、私たちはすでに仏です。30年間正直であれば、その後に報酬がもたらされると考えるのは誤りです。そうではなく、報酬でないところの報酬といえるものが即座に得られ、私たちの心に即座に影響を与えます。誠実さの前行は他の前行と同じように何度も繰り返す必要があります。そのようにして、私たちは実際に自己中心的で自己投資的な習慣を変えています。誠実であることは私たちの行動を浄化します。

葛藤の認識と仏法の価値

事故の葛藤の深さと深刻さを認めることができない限り、私たちは本当に仏法を大切にすることはできません。繰り返しになりますが、輪廻(サンスクリット語:bhavachakra)と六界での生まれ変わりについて考えてみましょう。仏法を実践しなければ、自分自身を知ることはできません。自分自身を知らないなら、死んだ瞬間に発動する、潜在意識に保存されている業の記録に気付くことができません。空気に満たされた風船が部屋の中に解放されると、その場で飛び回り、ランダムな場所に行き着きますね。あなたの感情的な反応をよく見てみれば、自分が向かっているところが少しは見えるのではないでしょうか。別の人間としての生活を持つことになるかもしれません。でも、あなたが人として生まれ変わる場所や状況の膨大な可能性について考えてもみてください。私たちがまだ人として生きて、仏法を実践する機会があるとき、それは本当に非常に稀なことなのですが、あなたは誠実であり続け、自身の葛藤の範囲を認めることができるのではないでしょうか。私たちが本当に救いがたいことに気づいたときが、私たちが密教徒として、大成就者であるグル・リンポチェに帰依した瞬間となります。そして彼は誰にでも喜んで手を差し伸べます!

過去の大成就者は文字通り世界中のいたるところにいて、人々が彼らに目を向けるのを待っています。私たちがイニシアチブをとる必要があるだけで、それにより仏道は楽しい道のりに変ります。グル・ヨガを通して、大成就者との関わりを介して、私たちはありのままの自分を知ることができます。このように、少しずつ、法に敬意を払うようになります。少しずつ、法に対する感謝と尊敬が私たちに湧いてきます。このような展開が悟りの姿そのものなのです。

菩提心

これらのすべての前行(チベット語:nundro)は、悟りの核心である菩提心を生み出します。菩提心のもう一つの見方としては、私たちが本質的な自分に立ち戻るということの現れです。輪廻的な存在は他人のことを思いやるとうことがありません。なぜなら、彼らは自分の利益と、自分の知人や自分のグループに属する人の幸せについて考えているだけだからです。大多数の人がこのような行動をしているのではありませんか。それこそ混乱の元でしょう。

他の人を思いやることによって、菩薩は習慣、好き嫌い、すなわち自己から作られた自分の殻を破ります。自己没入が少なくなり、周りの誰もが苦しんでいることに気づき始めるので、私たちは他人の助けになるようなことをし始めます。

今、これらの教えを実践し、実現してください。無数の先人たちの言葉をあなたの生命線にしてください。時間を無駄にしないでください。

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